背景
アルヴィン・ブラッグ氏は、2021年11月の選挙でニューヨーク・カウンティ※1(マンハッタン)の新しいディストリクト・アトーニー※2(以下DAという)として選出され、翌年1月に就任した。
就任早々に同DAは、
・軽微な犯罪(運賃未払い、売春、大麻の使用等)は訴追しない
・強盗等についても危険度の高いもの以外の起訴件数を減らす
という方針を示して大きな議論を呼ぶとともに、改めてDAの役割や権限とその限界について注目が集まることとなった。ブラッグDAが惹起した論争とそれに対するニューヨーク州知事の反応※3については以下のリンクを参照されたい。(CNN)(New York Post)
※1 ニューヨーク州において、カウンティは一般的にその区域内に複数の地方自治体(シティ、タウン、ビレッジ等)を含む広域行政単位であるが、ニューヨーク市のみ例外的に5つのカウンティ(ブロンクス、キングス(ブルックリン)、ニューヨーク(マンハッタン)、クイーンズ、リッチモンド(スタテンアイランド))から成る。
※2 ニューヨーク州におけるディストリクト・アトーニーとは、各カウンティで公選される主席地方検事をいう。
※3 キャシー・ホークルNY州知事は、ブラッグDAの急進的な方針に懸念を示し、知事の「権限」を行使する可能性を示唆する発言をした。具体的に何の権限を行使するかについて発言の中で特定はしていないが、ニューヨーク州憲法第13条には知事によるDAの解任に係る規定がある。
英国におけるカウンティの歴史
ニューヨーク州におけるDA制度を理解するには、まずカウンティ政府がどのように変遷してきたかを知る必要がある。カウンティは英国の制度に由来し、その起源はアングロ・サクソン期(1066年にウィリアム1世(ウィリアム征服王)が即位するよりも前)に遡る。サクソン人は領土を「シャー」(shire)という単位に分割し、各シャーは「ハンドレッド」(hundred)に分割された(これは後の「タウンシップ」(township)の基礎となる)。ウィリアム1世はフランスのノルマンディー出身でありフランス語を用いたため、シャーはフランス風にカウンティ(county)と呼ばれるようになった。
シャー又はカウンティは、国王の代理人である諸侯によって統治された。パリッシュ(parish、教区)やハンドレッドにおける地方行政は、依然土着の貴族の領地として支配されていたが、貴族は、国王に対する奉公(主に兵力の提供)により領土の支配を認められていた。12世紀末には、多くのタウンが法人としての実体を持つようになり、王に毎年税金を支払って「バラ」(borough)と呼ばれるようになり、拡大する商業機能、中でも農産物市場の運営を担った。これら市場開催権を持つ都市はマーケットタウンと呼ばれる。
一方、シャー又はカウンティは司法制度の単位となった。司法制度の長はシェリフ(sheriff)である(なお、シェリフは元々shire-reeveと呼ばれ、reeveは長の意)。シェリフは法と秩序に責任を持ち、13世紀には、各カウンティの騎士が王により任命され、「平和の番人」(conservator of the peace)と呼ばれた。これは今日でいう裁判官又は治安判事であり、法廷を設け、個人間の争いごとの尋問を行うようになった。カウンティ内のタウンは裁判官の巡回の単位となった。
歴史は複雑であるが、13世紀までに成立した英国議会の発展がカウンティの発展にも決定的な役割を果たすことになる。下院(House of Commons)の成立により、カウンティは議員選出の単位となった。14世紀の黒死病の流行により封建的な地方統治は崩壊し、司法的機能はカウンティに、それ以外の行政はタウンにと分岐していった。16世紀になると、英国議会は統監(Lord Lieutenant)にシェリフの軍事的な役割を(County militia)、法律と行政関係を治安判事に負わせることで(County Business)、直接的なコントロールを強めた。それ以来英国議会の意思に基づきカウンティの役割は増大している。このモデルが植民地においても基礎となった。
ニューヨーク州におけるカウンティ及びディストリクト・アトーニー制度の発展
ニューヨークがオランダから英国の支配に移った翌年(1665年)、代表者会議において植民地を17のタウンとヨークシャーに分割することが決定された(この名前は国王の弟ヨーク公の名前にちなんでつけられた)。1683年には、新たな植民地憲章により12のカウンティに分割された。植民地議会下院の代表はカウンティを単位として選出され、また、各カウンティに常設の裁判所が設置された。これは1691年に植民地憲章で明文化された。独立戦争の後、1777年に新たな州憲法の制定の際、ニューヨーク州は当時存在したカウンティ及びその下の地方行政単位としてタウンに分けられた。その後カウンティの数は分割により増加し、現在は州内で62のカウンティがある。イングランド同様、カウンティは司法的機能のほか、広域行政を担う単位となった。
ニューヨーク州では、また他州の多くにおいても、植民地時代の役職が維持された。シェリフは1683年の憲章で創設されたが、その後カウンティ政府の役割が増大し、行政機能と司法機能が分化するにつれて、その他の司法関連の役職(カウンティ裁判官、遺言検認・後見官、カウンティ検事等)が追加された。このカウンティ検事がニューヨークではDAと呼ばれるものである。なお、1665年以来、植民地は裁判区(judicial district)に分割されており、その名称から「ディストリクト」アトーニーと呼ばれるようになった。
さて、DAについて、その役割は何で、また、DAは誰に対して責任を負うのか。DAはディストリクト(=カウンティ)を単位とする公選職として、その区域内の人民に奉仕する。公選職ではあるが、DAは完全に独立した権限を有するわけではなく、州権の執行機能を有しており、それはイングランドにおける治安判事が国王の代理人であるのと同様である。したがって、DAは広い意味で州の司法長官(Attorney General)の部下に当たることになる。ニューヨーク州においては司法長官も公選職であるが、州全体の執行部の長は知事(Governor)である。すると、司法長官は州の司法に関することに責任を有するが、州憲法に基づく知事の権限にも服する。加えて州議会は知事とともに州法を制定する権限を有する。州議会が定めた法律が施行されると、知事は、また知事を通じて司法長官は、そして司法長官を通じてDAは、その執行に責任を有し、また、その職務に就く際にその旨宣誓する。このことは州憲法に明記されている(第13章、特に第13条(b)参照)。
ニューヨーク市は5つのカウンティ(ニューヨーク、ブロンクス、キングス、クイーンズ、リッチモンド)からなり、これらは同時にバラでもある(マンハッタン、ブロンクス、ブルックリン、クイーンズ、スタテンアイランド)。各カウンティにDAが置かれており、アルヴィン・ブラッグ氏はニューヨーク・カウンティ(マンハッタン)の刑事訴追のみに責任を有する。ブラッグ氏の考え方は他の4カウンティには影響しない。また、上述のとおり、ブラッグ氏は州の法令の誠実な執行に係る知事の権限に服するため、知事のコメントが示唆する知事がブラッグを辞めさせる「権限」は、DAの権限の限界を示すものである。
司法制度は国のみが所管する日本と異なり、米国では法令違反による訴追の大半は州レベルで行われ(連邦レベルのものはごく限られる)、そのため、大半の起訴はカウンティで行われることになる。だからこそアルヴィン・ブラッグDAの訴追に係る方針は重要なのである。
(ベンジャミン上級調査員)
(訳者注)
日本の場合、地方公共団体の事務処理に法令違反が認められる場合の是正手続きは地方自治法に定められている。国の地方公共団体に対する関与は法令に基づくことが求められており、また、地方自治法に関与の基本類型を示して、地方自治法以外の個別法で定められる関与についても、その類型によることが原則とされている。また、国の関与について不服がある場合は、国地方係争処理委員会に申し出て、その審査により解決を図ることとされている。
一方、本件について、軽犯罪等の一部の訴追をしないというブラッグDAの方針を法令違反と言ってよいかについては判断の余地があると考えられるが、日本との比較で言えるのは、ニューヨーク州と州内の地方自治体(司法機関を含む)の間での、州法に基づく事務処理の是正手続きについて明確な手続きが法定されているわけではないこと、また、州知事はカウンティ(州とは別の地方政府)の公選職であるDAを罷免する権限を有することである。一般的に、地方自治体の個別の事務処理の是正は裁判を通じて行われることが多いが、DAは個別の起訴の決定について絶対免除(absolute immunity; 訴えられない)とされているため、知事による罷免権をもって適切な業務執行を担保するという形になっている。
なお、現在のところ、ブラッグDAのスタンスは一歩後退した形となっており、州知事によるそれ以上踏み込んだ動きは起こっていない。